感動を伝える講話集

「子どもたちが楽しみにするような感動的な話をしよう」というコンセプトのもとに、小学校の校長が月曜朝礼で話した87の講話から精選。歳時記、伝記、童話、民話、感動的な出来事、スポーツ、映画、演劇と話材のジャンルは幅広く、「学校だより」や「学級通信」を通して保護者の心にも響く題材として活用できるものが満載です。 

<ご利用にあたって>
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対象 学校だより・学級通信

被害者意識からは何もいいことは生まれない

新垣 勉(テノール歌手)

1953年、沖縄中西部の読谷村に生まれた。お父さんはアメリカ兵、お母さんは沖縄人。当時の沖縄ではさほど珍しいことではない、いわゆる「ハーフ」である。他の人とちょっと違っていたことは、出産の際に助産婦さんが誤って劇薬を両目に入れてしまい、失明してしまったこと。

新垣さんが生まれると同時に、お父さんはアメリカに帰国し、お母さんは再婚して家を出ていく。新垣さんはおばあちゃんに育てられたが、そのおばあちゃんが中学2年の時に死ぬまで、自分の母親だと思っていた。よくいじめられたと言う。(中略)そんな中での新垣さんの友達は「歌」だった。「よく歌いました。特に銭湯は音がよく響くので通いました。銭湯歌手ですよ」と笑う。新垣さんはその頃の思いの丈を話す。

「これは言葉では言い表せないです……。父と母、そして助産婦さんを見つけ出して必ず殺してやると心に決めていました。目が見えていたなら間違いなく非行の道に走っていたでしょうし、母や助産婦さんを殺して刑務所に入っていたかもしれない……。“幸運”にも目が見えないために、それはできませんでしたけど……ね」と。

そんな新垣さんが高校時代に出会ったのが、城間祥介(牧師)さんだった。城間さんは3人のお子さんがいるのに、新垣さんを家族の一員として迎え入れた。「初めて知った家族のぬくもりです。いまでも忘れません」と新垣さんはしみじみと言う。(中略)

両親や助産婦さんへの思いが大きく変わったのは、大学受験のためにボイストレーナーのA・バランドーニさんに付いて勉強していた時である。
先生から「君の声は日本人離れしているね」と言われ、自分の生い立ちを話した。すると先生は、「それはお父さんに感謝しなければいけない。これはいくら努力しても手に入るものではない。君の宝だよ」と。

この言葉を聞いた新垣さんは、目からうろこが落ちるような気持ちになった。それまでは「ハーフ」ということをマイナス思考ばかりでとらえていた自分の気持ちが、お父さんのおかげで好きな歌に向いた骨格を授けてもらえたのだというプラス思考に変わったのである。
新垣さんは、荒れる小中学校に呼ばれて歌を歌うことが多いが、その時、「親が悪い、学校が悪いという被害者意識からは何もいいことは生まれない。自分の力でマイナス面をプラスに変えると、全く違う世界がそこにはある」と生徒に話しかけている。

(『講話が楽しくなる話題の玉手箱』松本陽一著/学事出版より)