ブックタイトル季刊理想 Vol.117

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概要

季刊理想 Vol.117

2 ◆ 季刊理想 2015 秋号ド・シャルムは、(チェスや将棋の)「駒」になるか、「指し手」になるか、という印象的な視点に立っての研究を、かつて行いました(『やる気を育てる教室――内発的動機づけ理論の実践』金子書房、1980 年)。ド・シャルムは次のように述べます。「指し手」というのは、自己の運命を支配しているのは自分自身であると感じている人のことであり、自分の行動の原因を自分自身の中に感じている人のことである。「駒」というのは自分はふりまわされていると感じ、運命の糸は他者ににぎられていて、自分は操り人形にすぎないと感じる人である。…「指し手」と感じている人は積極的で、楽観的で、自信があり、挑戦を受け入れる。「駒」は消極的であり、自己防衛的であり、決断力に乏しく、挑戦を避ける。「指し手」は自分に潜在的な力があると感じており、「駒」は無力と感じている。… 教育は、個々人に様々な資質・能力を身に付けさせ、「有能な人間」に育てあげていく営みです。しかし問題は、そうした自分自身の資質・能力を使いこなす主体としての育ちが伴っているかどうかです。最近よく「キーコンピテンシィ」や「社会人基礎力」といった現代社会で必要とされる主要な資質・能力リストが喧伝されています。今の子どもたちが、学校を卒え未来社会で活躍していくためには、こうした資質・能力を十分に身につけていかなくてはならない、ということについては私も賛成です。しかし、それに主体としての育ちが伴わなくては、単に「有能な駒」が育つだけになるのではないでしょうか。情報化社会で必要となる資質・能力は何か。グローバル化社会で必要となる資質・能力は何か、少子高齢化社会で必要となる資質・能力は何か、を論じるのは大切なことです。しかしながら、それだけでは「社会のための個々人」を形成していく教育しか考えない、本末転倒の教育論となる恐れがあります。主体的な人間としての不可欠な育ち=「指し手」としての資質・能力=のことを、もっと考えてみる必要があるのではないでしょうか。有能な「駒」でなく「指し手」でありたい奈良学園大学学長 梶田 叡一●梶田 叡一(かじたえいいち) 松江市に生まれ米子市で育つ。京都大学文学部哲学科(心理学専攻)卒。大阪大学教授、京都大学教授、兵庫教育大学学長などを経て現職。日本語検定委員会理事長などを兼ねる。これまでに中央教育審議会副会長・初等中等教育分科会会長・教育制度分科会長などを歴任。神戸新聞平和賞、裏千家淡交会茶道文化賞などを受賞。主な著書に『意識としての自己』(金子書房)、『不干斎ハビアンの思想』(創元社)など。